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華やかに咲く花には根っこがある。

 

オーガニックビューティーの第一人者・吉川千明さんが積み重ねてきた「いま」

「あなたどうして、そんなに不安そうな顔をしているの?」──出産を経てブランドを立ち上げたばかりの頃、明日 わたしは柿の木にのぼるの代表・小林味愛は、そのひとことで、言葉にならない自分の感情、不安やプレッシャーに気づいたと振り返ります。そして、ふっと心が軽くなって、前を向くことができた、と。

初めてお会いしたときに、そんな声をかけてくれたのが、美容家の吉川千明さん。

1997年にオーストラリアの「Jurlique(ジュリーク)」の旗艦店を青山にオープンしたことを皮切りに、日本のオーガニックビューティーを開拓してきた第一人者。2010年よりジェイアール名古屋タカシマヤで主催する「ナチュラルビューティースタイル展」は、日本最大規模のオーガニックコスメイベントに。2002年より産婦人科医・対馬ルリ子先生と開催する「女性ホルモン塾」では、心身を健やかに保つ女性のライフスタイルを提案し続けています。

上品でなめらかな佇まいに垣間見える、「自信がある」の一言では表現できない芯の強さ。千明さんの「芯」はどうやって育まれてきたのか。大先輩のご自宅を訪ねました。

 

仕事に男も女も関係ない。人を蹴落とすのではなく、人を育てる

遡って、千明さんのキャリアの始まりは、創業して間もないリクルート(当時の社名は日本リクルートセンター)。ここでの経験が「私の運命を変えた」と記憶を手繰ります。

「20代の私は世間知らずでね。オシャレしてディスコで踊って外車に乗って、遊ぶことがすべての典型的な女子大生。卒業時に一緒に遊んでた友だちがみんな就職しててびっくり。私は自分がどう生きていくか、就職することなんて一切考えてなかったから。卒業後もぷらぷらしている私を見かねた友だちが声をかけてくれて、リクルートで働き始めたの。アルバイトでね。

バブル前の勢いのあるリクルートは刺激的だった。創業者の江副さんも近くにいた銀座のビルで、トッププレイヤーたちが非常識な私に文章の書き方から電話の取り方、何から何まで教えてくれて。企業内研修を担当していてね。仕事がおもしろいってことを知った。よく働いてよく遊んで。リクルートに入ってなかったら、今頃どうなっていたんだろう」

女性は家庭に入ることが当たり前だった時代、創業当時のリクルートの求人募集は「学歴、男女、国籍の差別なし」。その応募者の6割以上が女性だったそう。

「昭和の会社には“女性がお茶汲み”って文化があったんだけど、リクルートではお茶汲みは用務員さんの仕事で女性の仕事じゃない。男も女も関係なく、それぞれが自分の仕事をする。給湯室に湯呑みを置いて、用務員さんに仕事を残せって。衝撃だった、というより純粋培養でそう思っていました。男女問わずがんばれば認められる環境で、アルバイトから正社員になって。マネージャーになるための評価基準は、後輩を育てられるか。人を蹴落とすんじゃなくて、人を育てることで評価されるのもよかった」

“女性だから”と仕事をあきらめることなく、人の可能性を狭めることなく、フラットな視野で働き続ける千明さんの礎は、この時代に培われたものでした。

 

お金の勘定にも目を背けず、“好きなことを仕事にする”と決めた

インテリア会社に転職したのち、結婚。31歳のときに出産と同時に起業。そこから千明さんの“美容人生”が始まります。

「元夫がカメラマンだったので、彼も含めアーティストのマネジメント業をやっていたんです。請求書を発行したり、給与計算をしたり。でも次第に、私も“自分の好きなことをしたい”と思うようになって。私が本当に好きなことってなんだろう?って考えて行き着いたのが美容とコスメだったのね。どうせやるなら世界最高水準を目指そうって、32歳からエステティックのインターナショナル資格CIDESCO(シデスコ)の取得の勉強を始めて。エステにも行ったことがない美容好きの私が、資格の勉強をしながらエステサロンを開いちゃったの」

1994年、千明さんは中央区の佃島美容サロンをオープン。当時はインターネットは普及しておらず、HPもSNSもありません。自分の理想のサロンを実現するために、必要な道具を購入するのも、人を集めるのも一苦労。先例や情報がほとんどないなかで頼みの綱だったは、自分の“好き嫌い”の感覚でした。

「どうやってやってたんでしょうね(笑)。エステティシャンが白衣を着て手袋をしているのが気持ち悪いなって思ってたから、ナチュラルな服で、家具もアンティーク調で、自分がいいと思うものをとにかくかたちにしていった。タオル一つもこだわりをもって、カタログ見てFAXで注文して船便で届いたりして。集客はポスティングをして足で稼いでね。まだ資格が取れていなかった頃は、いいエステティシャンを雇って学ぼうとするんだけど、簡単には教えてもらえない。理不尽なことにも慣れましたね。化粧品をワンセット買うのも高額で、後戻りはできない。だから、自分に“できるかな?”ではなく、“やる!”って決めてた」

自分の好きなことを仕事にすると決めたとき、千明さんは「お金の勘定」にも意識を向けました。

「実家が祖父の代からの家族経営の問屋で、幼い頃はお金の話なんてしたことなかったの。みっともないって。でも私が25歳のときに潰れたのね。商社ができて問屋が必要なくなって。お金は景気がいいときはいくらでも借りられるけど、そうじゃなくなると一気になくなる。利益を上げないとやり続けることはできない。立ち行かなくなる親の姿を見て、一つのことにすがることなく時代の先を読んで変化していくこと、見栄を張らずにちゃんとお金の勘定をする大切さを学んだの」

 

子育ては何にも代え難い壮大な仕事。すべてを器用にやる必要なんてない

サロンを通してオーガニックコスメに出会い、惚れ込んだ千明さんは36歳のとき、日本初のJurliqueの旗艦店を開店。試行錯誤を重ねて、半年で売り上げも軌道に乗せました。

とはいえ、千明さんが駆け抜けたのは、今よりももっと、家事育児を女性が担うことが世間の通念だった時代。「子どもを保育園に預けるなんてかわいそう」と後ろ指をさされながら働いていた、と振り返ります。

「資格の勉強をしていたときは、子どもを保育園に預けて、自転車で学校に通って5時まで勉強、模擬試験、モップがけまでしてお迎えに行って7時に帰宅。お店を開いてからも、元夫のサポートもしながら、料理もぜんぶ手づくりして。やっぱり家族に申し訳ないという気持ちがあったから、手抜きができなかったのね。

当時は家事育児と仕事をどう両立するかばかりにとらわれて、とにかく余裕がなかった。いまは、もっと周りの人に頼って肩の力を抜いて子育てを楽しんでもよかったな、もっと子どもの話も聞いてあげればよかったって、未熟な自分に対する後悔もある。だって次世代の子どもを育てるって、未知なる可能性を秘めた壮大な仕事じゃない? 幼い子どもの成長に寄り添えるのはいましかいないし、親である自分しかいない。

私の反省を踏まえて、いまの子育て世代のみなさんには仕事だけにとらわれず、子どもをやっかいものにすることなく、出産・育児を楽しんでもらいたいですね。仕事も育児も、とすべてを器用にうまくやる必要はないと思いますよ」

(写真提供:吉川千明さん)

女性ホルモンの揺れ、更年期のケアは「自分の人生」を捉え直すきっかけになる

都内に7軒のサロン、ショップ、そして日本初の女性専用薬局をオープン。華々しいキャリアを歩む途中、心とカラダのバランスが崩れてしまったこともあったそう。

「37、8歳の頃、とにかく体調が悪くって。道を歩いていて家がパタパタと倒れてくるように感じたり、天井が落ちてくるって思ったり。夫のつむじを見るだけでイライラするし、肩が凝りすぎて美容室のシャンプー台にも座れない。今思えばプレ更年期なんだけど当時はそんな知識もないから。メンタルも揺れて、女が仕事をするのは申し訳ない、子育てもちゃんとしなきゃ、ごはんも作らなきゃって勝手に責め立ててた。

40歳になったときに、仕事を通じて産婦人科医の対馬ルリ子先生に出会って。女性ホルモンについて学んで、私の場合は、ピルを飲み始めたら多少改善したのね。女性ホルモンが自分の心とカラダに大きな影響を及ぼしていることを体感しちゃった。それで自分だけの知識としておくのはもったいない、と思って始めたのが『女性ホルモン塾』なの」

「女性ホルモン塾」で語られるのは、女性のライフステージ、ライフサイクル、リズムに合わせて、どう暮らし、どう働くのか──「自分の生き方」を捉え直していくような話です。

(写真提供:吉川千明さん)

「私たちが扱っているのは人生、なんだよね。女性ホルモンの揺れって、自分らしい生き方を見直すきっかけになる。心とカラダの不調を整えるために、自分に何が必要か、きちんとケアをしていくことができれば、新しいやり方を選んでいくこともできるから。

私自身、45歳からの本格的な更年期、とにかく体調が悪くって、元夫と喧嘩ばかりしていたわね。もともと大好きで結婚したはずなのに、本当に噛み合わない。もうこれ以上は無理だなあって。自分のメンタルと家庭が持たなくなって、51歳のときに離婚を選択しました。20年連れ添ってきたパートナーだったので、簡単に気持ちを割り切ることはできないし、傷つきもしたよ。でも、圧迫されてきたものから解放されたのもたしか。たとえば元夫に似合うからと言われて黒一色だったワードローブに、ピンクや黄色を取り入れたり、自分の好きなものに改めて耳を傾けられるようにもなった。戦うような働き方を変えたのもこの頃ね」

 

「いまの自分」にできることを積み上げていく

2020年、千明さんがセレクトしたブランドが集まる「ナチュラルビューティースタイル展」に参加した、明日 わたしは柿の木にのぼる の小林は、「ブランド同士はライバルでもあるはずなのに、仲間のようで空間があったかかった」と言います。千明さんは当日、インスタライブをして集客し、売り場を歩いてブランドへ声をかけ、その場の空気づくりを率先して行っていました。

「せっかく来てもらっているんだから、疎外感を抱いてほしくないし、損もさせたくないって気持ちがあるのね。朝礼でスピーチをしてもらうことで、初めて顔を合わせたブランド同士でも、一緒に売り場をつくっていく意識が生まれるでしょ。美しいイベントであるだけでなく、利益を上げることも大事。黒字にして帰ってもらいたい。だから1000万円の売上目標を立てたとしたら、『あと100万円なんだけどいけるかなあ』って相談しに行くの。そうすると『やります』って、彼女彼らの中に使命が生まれて、売り場が盛り上がっていく。そういう瞬間が私もうれしくて、ああやってきてよかったって思うのよね」

20年以上、現場に立って結果を出し、やり続けてきた千明さんだからこそ、つくれる場なんだと思います。

好きなことを仕事にしていく。そこには、お金のこと、出産・育児、結婚・離婚、心とカラダの揺れ──いろんな不安や事情がつきまとって、どうバランスを保っていけばいいのか、わからなくなって立ちすくんでしまうこともあります。先をゆく千明さんは、その時々に、その一つひとつと向き合ってきました。

「お店を閉じて、離婚もして、これまでやってきたことはなんだったんだろうってむなしさを感じることもありますよ。更年期にも苦しんで、もっと早く知りたかったと思うこともある。でも私には『いま』しかないから。時間は有限。みなさんに伝えたいこともいっぱいあるし、まだまだやりたいこともある。このまま死ねないって思うから、いまの自分にできることをしていくだけ」

華やかに咲く花には根っこがある。キャリアも健康も美容も、自ら土を耕し水をやり、広い根を張ってきた千明さん。自分にできる最大限の「いま」を積み上げいく。一つの場所にとどまることなく、まだまだあゆみを止めない千明さんの存在は、灯台のように、あとに続くものを明るく照らしてくれます。

text by 徳 瑠里香

 

吉川 千明さん

美容家/認定メノポーズ(更年期)カウンセラー

コスメのみならず、食、女性医療、漢方、植物療法、ファッション、インテリア、旅とナチュラルでヘルシーな女性のライフステイルを提案。 植物療法を学んだ後、日本初の女性専用漢方薬局を開設。1990年代より、オーガニックコスメと植物美容を日本に広げたナチュラルビューティの第一人者。 2000年の産婦人科医対馬ルリ子先生との出会いを機に、女性の健康啓発に関わる。2002年から始めた「女性ホルモン塾」は通算150回を数える。植物と美容の専門家。最新書に「閉経のホントがわかる本」(集英社)がある。

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