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柿の木便り
いきまず会陰切開もしないお産のかたち。健やかな妊娠・出産・子育てを迎えるために大切な「オキシトシン」とは?(前編)
妊娠中のつわりやカラダの重さ。出産時、分娩台で必死にいきんだのちの会陰切開。子育て中のイライラや孤独感。 どうしたらもっと健やかに妊娠・出産・子育てを迎えることができるのだろう。 その鍵が“幸せホルモン”とも呼ばれる「オキシトシン」にあると、湘南鎌倉バースクリニックの院長・日下剛先生は言います。 しかも、湘南鎌倉バースクリニックでは、オキシトシンの働きで、いきまず、会陰切開もしないお産がなされているそう。 そもそもオキシトシンってどんなホルモン? 健やかな妊娠・出産・子育てを迎えるために大事なことをテーマに、日下先生にお話を聞きました。
子宮とおっぱいに働きかけるホルモン
湘南鎌倉バースクリニックでは、いきまず、会陰切開も必要のないお産が行われているとお聞きしました。 日下: はい。当院では、お母さんの産む力と赤ちゃんの生まれる力を最大限引き出した「自然なお産」を行なっています。お産に適切な環境を整えて、楽な姿勢で、自然なお産のスペシャリストである助産師が主導となって安全をサポートするんですね。 異常が起きたときの緊急対応として、グループの基幹病院である湘南鎌倉総合病院と連携していますが、医療介入は最低限で、私たちが分娩台での「お産のフルコース」と言っている、会陰切開、吸引分娩、クリステレルと言われる分娩台で助産師が馬乗りになってお腹を押す行為をバースクリニックで行う事はほぼ皆無です。 お母さんの産む力と赤ちゃんの生まれる力を引き出す鍵となるのが「オキシトシン」です。腹筋に力を入れていきんで赤ちゃんを押し出すんじゃなくて、安心・安全な環境で幸せを感じる「オキシトシン」による子宮の収縮効果で自然に産む。 そのために、僕らは産む前段階で、妊婦さんにまず、オキシトシンについての学びを深めてもらう特別なプログラムを受講してもらいます。 そのお産の鍵になる、オキシトシンってどういうホルモンなんでしょうか? オキシトシンは、人間の生殖に関わる非常に重要なホルモンです。 でも、僕が学生だった30年くらい前は全く重要視されてはいませんでした。医学部の中でも関係があるのは産婦人科だけでしたから。当時、オキシトシンについてわかっていたことは主に二つ。 一つは、出産時の子宮収縮。脳の下部、下垂体でつくられたオキシトシンは、血液を流れて、子宮に到達したら筋肉を収縮させて、陣痛を引き起こす。オキシトシンが子宮を収縮させることで赤ちゃんを子宮から外へ押し出すことができるんですね。 それからもう一つが、授乳時におっぱいを出す働き。脳の下垂体から乳腺にオキシトシンが到達すると、筋肉を収縮して乳を出す。赤ちゃんが自分の力で吸っているわけではなく、オキシトシンの働きによって乳が出るようになっているんですね。 子宮と乳腺、女性の体の中にある袋のようなものの筋肉を収縮させることで、出産時と授乳時に非常に大事な役割を果たすのがオキシトシンです。でも、これは一つの側面でしかありません。 2000年くらいから、オキシトシンにはまた全く別の働きがあることがわかってきたんです。
愛情、信頼、思いやり。親子や夫婦の愛着形成を促すホルモン
それはどんな働きですか? オキシトシンは、カラダの血液に流れているだけでなく、脳にも流れていて、脳そのものにも影響を与える物質であることがわかった。つまり、感情や行動をコントロールする働きがあるということです。
その後、オキシトシンが脳に送られると、愛情、信頼、友情、同情、思いやり、寛容、共感、協調、憐れみ、安心、リラックス……など道徳の授業で習うような感情が生まれることがわかったんです。 これは非常に画期的な発見です。それまで我々は妊娠・出産・育児には、心のあり方、感情が大事なんじゃないかと思ってはいましたが、科学的な観点から考えることができませんでした。でも、オキシトシンの働きが研究により証明されたことで、科学的な観点から、実際の出産や子育てにも取り入れることができるようになったわけです。 そこからオキシトシンが“幸せホルモン”、“愛情ホルモン”と呼ばれるようになったわけですね。 そう。オキシトシンは脳に働きかけることで、親子や夫婦、周囲と人たちとの愛情・絆形成を促します。相手を見つけて、妊娠して出産をして子育てをしていく。子孫を残していくうえで重要な役割を果たしているんですね。 未来に子孫をつないでいくお産、「繁殖行動」において、オキシトシンがどんな働きをしているか。これは「進化論」で考えられます。
進化論で考える、オキシトシンの働きと生存戦略
進化論!? どういうことでしょうか……? 繁殖する生き物はそれぞれ子どもを残す方法を持っていますよね。魚類から、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類、つまり人間まで、進化論的に考えてみましょう。 まず魚。いろんなバリエーションがありますが、たとえば鮭。川で生まれて、川を下って子どもを産む時期になったら生まれた川に戻ってきて、雄と雌がペアを組む。雄が卵を産み落とし、産み落とされた卵子に雄が精子をかけて、交尾はしません。鮭にとって繁殖に必要な行動は、生まれた川に戻って、相手を見つけて、卵を産み落とす。それだけです。鮭が生まれた川に戻ってこられるのは、嗅覚など五感の感覚だと言われています。鮭は繁殖するためにオキシトシンの働きによる、相手や子どもに対する愛情は必要ないんですよ。 次に両生類。たとえばカエルは、鮭のように生まれた場所に戻るだけでは相手を見つけることができません。繁殖に必要なことはなんですか? カエルは、鳴いたり踊ったり「求愛行動」をしますよね。子どもを残すためには、相手の興味を引かなければならない。つまり相手を好きになる、異性に興味を持つ。好きという気持ちは、オキシトシンの力によるものですね。 次は爬虫類。ウミガメはどうですか?カエルは相手を見つけるだけで、産んだ後に卵をお世話することはありません。でもウミガメは、相手を見つけて交尾をして、卵を産んだ後、卵を砂の中に埋めます。短時間ではありますが、自分が産んだ卵を守りたいという、子どもに対する愛情が生まれます。その愛情こそが、オキシトシンによるものなんですね。 では、鳥類。求愛行動をして相手を見つけて、交尾をして、卵を産む。鳥は巣をつくって卵が孵化するまで大事にあたためて、産まれた後も、巣を守り餌を与え、子どもへの愛情が必要です。さらに、「つがい」と言うように、雄と雌は子どもを守るためにお互いに不可欠な存在として相手への愛情を持っているんですね。かなり長期間にわたってオキシトシンが活躍していますね¹。 さあ、人間はどうでしょうか。相手を見つけて、性行為をして、子どもを産んで、育てていく上で、鳥のように必ずしもパートナーの存在が不可欠ではないですよね? じゃあ子どもを産み育てていくために必要なことは何か。周囲を育児に巻き込んでいくことです。人間はオキシトシンの働きによって、自分のそばにいる人たちの信頼を持って、頼っていく。集団で育児をする仕組みを獲得したんです。つまり、母親一人でもなく、パートナーと二人でもなく、親戚や友人、地域の人、集団で育児をしていくのが人間の生存戦略なんです。 はあ。オキシトシンの働き、進化論の観点からも、現代の核家族、「ワンオペ」と言われるような育児には限界があるわけですね……! そうなんです。オキシトシンは、我々人間にとって、妊娠・出産・子育て、つまり繁殖における「総合プロデューサー」とも言えるホルモンです。パートナーとの愛情を育み、性行為を行って子どもを授かり、出産時に子宮を収縮して陣痛を促し、授乳における母乳分泌を行い、母子の愛着を形成する。子育てを担うパートナーや周囲への信頼と絆も形成する。妊娠から出産、子育てまでに必要なあらゆることを請け負っているホルモンなんですね。 つまり、オキシトシンがしっかり分泌されていれば、妊娠・出産・子育てがうまくいくんですね。
補足1:それぞれの生物種には様々なバリエーションがあり、ここで示しているのは典型例です。また哺乳類以外のオキシトシンは正しくはメソトシン、イソトシンというオキシトシン相同物質です。
text by 徳瑠里香 Illustration by 遠藤光太
日下 剛(くさかたけし) 先生
産婦人科医、医学博士
1967年北海道生まれ。旭川医科大学医学部を卒業後、北海道大学大学院に在籍して産婦人科研修と医学博士取得。その後、湘南鎌倉総合病院産婦人科部長として勤務ののち、2016年5月から湘南鎌倉バースクリニック院長として、赤ちゃんに優しいお産の普及に取り組んでいる。